「太陽にほえろ!」で脚本家デビューした、還暦フリーランスのこれから。

「太陽にほえろ!」で脚本家デビューした、還暦フリーランスのこれから。
「太陽にほえろ!」でデビュー後、数々の国民的ドラマの脚本家として活躍。そしてネット塾という新しい取り組みにもチャレンジしてきた彼が、還暦を迎え次に目指す舞台とは。フリーランスの歩みと労働観に迫るシリーズ、『たとえば、こんなフリーランス』。
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国民的ドラマの脚本家が目指す世界

「脚本家になりたい」という思いをカタチにするため、サラリーマン時代から実力を蓄え、1985年に当時国民的人気を誇った刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で華々しいデビューを飾った脚本家・蔵元三四郎氏。

その後も第一線の現場で活躍し続け、やがてインターネットを活用した脚本家養成塾を開設。時代の変化に合わせ、既存にはない手法を使い後進の育成にも携わってきた。

還暦を迎えて目の前に現れた、自身のなすべきこと。いまなお「これからやりたいこと」を熱っぽく語る蔵元氏の目には、「好き」を仕事に生きる表現者の高い矜持が宿っていた。

厳しくも愛のある師匠に師事した時期を経て、デビュー15年の節目で脚本家養成のネット塾を開設。時代は変わっても一貫して同じ夢を持ち続けた彼の次なる舞台とは。蔵元三四郎氏のインタビューをお届けします。

脚本家デビューまでの期間は、わずか10ヶ月

太陽にほえろ! 出演者のサイン

–蔵元さんはサラリーマンとして社会人生活をスタートされたんですね。

大学卒業と同時に上京して就職しました。「あの生意気な新人を俺にくれ」と当時の上司が言ってくれたようで、いきなり経営企画室に配属されたんです。27,8歳の頃には企画室長になり部下も50名ほどいました。

–会社勤めからどうして脚本家になろうと?

高校時代に山田太一さん、倉本聰さんといった、名だたる脚本家のシナリオ本を読み「脚本家」という仕事に興味を持っていました。それで私はサラリーマンとして働きながら、日本脚本家連盟の教室に通っていたんです。

その後、日活のアクション映画の黄金期を築いた脚本家・小川英先生が主宰する英塾に入塾し、第1期生として本格的に指導を受けました。

入塾した頃はまだサラリーマンでしたが、先生に「『太陽にほえろ!』の脚本を1本書け」と言われて。入塾した10ヵ月後の1985年1月11日に、小川先生との共作で書き上げた『太陽にほえろ!』でデビューしました。

前だけを向いて走り続けた時代を経て、見えたもの

蔵元氏の書斎に並ぶ江戸時代関連の本の数々

–以降も「遠山の金さん」「銭形平次」「暴れん坊将軍」といった時代劇や、「西村京太郎サスペンス」シリーズなど、刑事ドラマ、サスペンスまで幅広いジャンルのビッグタイトルで脚本を手がけられました。

師匠がいたから、一定の活動ができる場所を用意してもらえた、という幸運があったと思います。

書き上げた原稿を持っていくと、先生は愛用のサインペンを手に取り、原稿を一枚めくると右の上から左の下まですーっと斜線を引いていく。そしてページをめくり、延々と斜線を引いていく。
最後に原稿を閉じて、「明日の朝まで」と一言。斜線以外は何も書いていない。

要は、自分で考えろと言うことなんですよ。

何度も修正した原稿を持っていくと、何か書いてくれるようになりました。でも、大きな座卓の反対から覗き込むと、「馬鹿」とか「ふざけるな 」とか。何の指示もなくてね(笑)。
結局、忙しくなり会社を辞めました。先生には10年師事していましたが、後半の頃に原稿を持っていくと、ペンを持たずにお読みになって、最後に一言、「これでもいいよ」といってくれたことを今でも覚えています。

デビュー以来15年間は脚本家としてとにかく走り続けたとしか言いようがないけど、私には小川英という師匠がいて、師匠が開いてくださった道があった。 私はその道をひたすら走り続けただけですね。

–そして、2000年にインターネット上の脚本家養成塾「クラム」を開設するわけですね。デビュー15年の節目を迎えて、何か胸に期するものがあったのでしょうか?

「クラム」はネット塾の先駆けと言われていますが、きっかけはテレビ局主催の懸賞公募で審査員をやるようになったことです。

審査の段階や局で担当本数は変わりますが、各局1,000本以上の応募脚本を片っ端から読んで寸評を書く。選考を通過した脚本には、作者一人ひとりに審査員が指導教官としてついて最終審査に臨むこともあったのですが、私はそこで伸びしろの少ない1位の応募者よりも、より伸びしろのある最下位5位の人を選んで指導していたんです。

–教えて、育てる、という視点が芽生えたのでしょうか。

脚本家として大成する道があったとすると、その道のりは崖を登るような険しいものです。デビュー以来15年間、自分は脇目も振らずに崖を登っていました。そこで、ふと崖の下を見てみると後ろからたくさんの人々がついてきていた。で、彼らを見ていると「そこにいると危ないよ!」とか、「そっち行っちゃだめだよ!」と気づいてしまう。

そこで私はいったん崖を下りてしまったんですね。そして後ろからついてきた人々を押し上げるための活動をした。

–それが約10年間のインターネット塾での活動につながるのですね。

そうです。ただ、10年やってみて気がついたら、今度は崖の下には自分以外、誰もいなくなっちゃった(笑)。

「一億総どらま作家時代 」が到来しても、目指すものは変わらない

–どうして塾を閉鎖されたのですか?

「脚本家に未練はない」と思っていましたが、後輩すなわちライバルを育てることで葛藤があったのかもしれません。やっぱり、書いてなきゃだめなんですよね。若い世代の台頭もあったりして、過去の人になって行く、そんな危機感も少しありました(笑)。 そこで、塾を閉鎖して個人主体の活動にシフトしたんです。

–還暦を迎えた今、TVドラマを舞台に活躍されてきた蔵元さんの次なる舞台は?

英塾に入るときに「何をやりたい?」と聞かれて、私は「テレビ局を創りたい」と答えたんです。その気持ちはいまでも変わっていません。

ここ数年はフィルムコミッションを創設し、その活動をしていました。先日も、某映画の撮影を招致したり、撮影までのアレンジやサポートを地域住民の皆さんたちと一緒に行ったんですよ。

他にも在宅で何かできないかな、と思い始めたのがLancersでした。主に ライターとして登録して、興味のある仕事を見つけたら提案もしてますよ。時代劇を書くために江戸時代のことをよく調べたので、古銭に関する記事執筆とかね。あれはクライアントに喜んでもらえました。

他にも、見る人の心が温まるような3分動画のシナリオ制作の依頼をもらったことがあって、それはすごく面白かった。誰かに喜んでもらえるような依頼はいいなぁ、と思いましたね。

私はよく「一億総どらま作家時代 」と言っているのですが、今やプロでなくてインターネットの力を使えば、その人なりの表現ができる時代がやってきたと感じています。大規模な映画やTVドラマは大変ですが、規模を小さくすれば、街の商店を舞台に、名前が売れてなくも活きのいい役者でドラマ仕立てのストーリーがつくれてしまう。

時代は変わっても、「あの人とこの人をくっつけて、こんなことやりたい」という思いをカタチにしたいという気持ちは変わっていません。そして、それが自分の天職だと思っています。

(おわり)

【蔵元三四郎】

1956年生まれ。小川英が主宰する脚本家育成塾「英塾」の1期生。1985年に刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で脚本家デビュー。以降、「遠山の金さん」「銭形平次」「暴れん坊将軍」といった時代劇や、「西村京太郎サスペンス」シリーズなど、刑事ドラマ、サスペンスまで幅広いジャンルのビッグタイトルの脚本を担当。2001年にインターネット塾「シナリオ実践塾クラム」を開設。後輩脚本家の育成にあたる。
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