15年間で身に着けたプロ意識が、フリーライター人生の武器

15年間で身に着けたプロ意識が、フリーライター人生の武器
広告制作ディレクターや編集者といった華々しい仕事から、情報誌の校正という地味で職人気質な仕事まで幅広く経験してきた、フリーライター・石王英臣氏。1つのミスも許されない現場で身に着けたのは、仕事に妥協しないプロ意識でした。娘には甘いけど仕事には厳しい。今回はそんなフリーライター・石王英臣氏をご紹介します。
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職人気質な現場での経験が今の財産に

石王英臣は小学生の頃からコナン・ドイルに憧れて推理小説を書くような男でした。

小学生の頃は原稿用紙に向かって筆を走らせていたのですが、中学生になって親のワープロを借りて小説を書くようになってからは機械に詳しくなり、専門学校に入る頃にはタイピングやパソコンの設定について周囲の生徒から「先生より石王に聞いた方が早い」とまで言われたほどです。

そんな私が就職先に選んだのも、情報誌を出版する広告関連の会社でした。得意だったパソコンのスキルを活かして出版に関わりたいという思いがあったのです。

入社してしばらくは職人の下積みのような仕事が多く、自分の手掛けた仕事が本になって世に出るという事を体験して、仕事の厳しさや責任の重みを学びました。

いま「フリーライター・石王英臣」として独立して仕事が出来ているのも、そういう職人のような世界で15年間経験を積んだからだと思います。

15年の間には広告制作ディレクターという華々しい仕事をした頃もあれば、印刷工程の写植や組版・校正といったミスの許されない現場で出版前の原稿と格闘する地道な時代もありました。

厳しい現場で15年間戦ってきたからこそ、ビジネスパーソンとしての自分を武器に出来ているのだと思います。

フリーライターとしての原点は1人4役だったディレクター時代

広告関連の会社に入社してからは、情報誌の出版の中でも印刷の直前の工程である写植や、誌面の構成を作る組版、情報誌に掲載される内容を1文字ずつチェックする校正という業務を担当していました。

どの業務も一歩間違えば自分のミスが情報誌に掲載されてしまう責任の重いもので、入社1年目から職人レベルの完成度を要求される厳しい世界でした。情報誌のリニューアルで会社に泊まり込んだり、原稿の校正は他の社員の3倍の件数をこなしたり、とにかくがむしゃらに働いていました。

社会人としての転機は、入社5年目に親会社から広告制作のディレクターとして抜擢された事です。

それまで組版や校正といった出版に関わる工程で実務経験を積んではいましたが、デザインについて専門的な勉強をした訳でもなく叩き上げに近い状態でした。

現在のフリーライターという職業の原点に最も近いのが、この頃のディレクターとしての経験だと思います。

ディレクターとしてのメインの仕事は、広告の企画内容を顧客と打ち合わせしたり、デザイナーに依頼した仕事の進行を管理するような監督業務でした。

しかし、コピーライターの手配が間に合わない時には自分でコピーライティングをしたり、時にはイラストレーターに代わって広告用のイラストを描く事もありました。外注先や顧客とのやりとりなど、社外の方との接し方を本格的に学んだのもこの頃ですね。

また、ミスをすると現実的に制作費として跳ね返ってくるので、必然的に自分の仕事に厳しくなった時期でもあります。

ディレクターには外注先への指示書の書き方1つにしても、具体的なイメージを共有するような的確さが求められました。

例えば、顧客から「明るい感じの広告で」と言われたら、具体的にどんな「明るさ」を求めているのかをしっかりと確認し、そのイメージをデザイナーに齟齬が無いように伝達します。

必要なら自分でコピーライティングをしてテキストデータを用意するし、イラストを描いたりデザイン用データのプロットまで制作してから発注するくらい、広告制作に関しては細部にまで徹底して気を配っていました。

あまりに指示が細か過ぎて、デザイナーから「もう石王さんが作った方が早い」と嫌味を言われた事もありましたが、細かい注意を積み重ねる事が結果的に仕事のミスを減らし、生産性や顧客満足度を高める事にもつながりました。

そういう精度の高い仕事のスタイルを身に着けたのが、広告制作ディレクターを務めていた頃だと思います。

編集部に異動してさらに大きな責任と向き合う事に

広告制作ディレクターとして数年の経験を積んでから異動になった先が、本社の編集部でした。

配属されたのは編集部の中でも進行管理を担当する部門で、情報誌の顔となる表紙やカラーページの納品スケジュールを管理したり、印刷所やデザイナーの間に立って業務を調整する仕事を任されました。

表紙というのは情報誌の看板です。その看板に関わるというのはとても責任の大きな事でしたが、ディレクター時代に徹底して細やかに仕事をする姿勢を身に着けていた事がとても役に立ちました。

ディレクターの頃のように自分で企画やデザインをする機会は減り増したが、表紙やカラーページに関わる人達の橋渡しを務めるというのは良い経験になりました。

この頃の編集長が色々と編集部のメンバーの事を気にかけてくださる方で、情報誌の奥付の編集者名に「石王英臣」とクレジットされるよう手配してくれたのを覚えています。

自分の名前が世に出た嬉しさもありましたが、それ以上に編集者としての責任の大きさを噛み締めましたね。編集長も情報誌にメンバーの名前を積極的にクレジットする事で、プロとしての自覚を促そうとしていたのかもしれません。

子供の誕生を機に、15年勤めていた会社を退職してフリーランスという道へ

15年という期間中、他にも社内基幹システムの運用管理やSNS構築、社員向けヘルプセンタースタッフや総務など様々な業務を経験しました。どの業務でも、入社時代から叩き込まれた職人気質が役に立ちました。

そんな15年間で転職を決意したのが、待望の長女の誕生でした。長女の誕生を機に妻と今後について話し合い、15年間勤めた会社から転職する事にしたのです。

転職して育児をしながら新しい仕事をするようになったのですが、その頃に知り合いから紹介されて出会ったのがランサーズでした。

初めは副業のような感覚でランサーズでの活動を始めたのですが、本格的なライティングの案件の継続受注をきっかけに、思い切って2016年から個人事業主として独立し、フリーライターとして本格的に活動するようになりました。

ランサーズでのフリーライターとしての活動は常に新しい事への挑戦の連続ですが、そんな挑戦の日々で武器になっているのが社会人として15年以上培ってきたビジネススキルですね。

特に広告制作ディレクターや編集者というクリエイティブな経験は、案件の受注から業務の管理、クライアント様とのお取引など様々な面でフリーライターとしての活動を支える強みになっていると思います。

15年間頑張ってきた成果が、フリーライターとなった現在の自分を支えてくれているのです。

現在はフリーライターとしてライティングのお仕事を中心に受注していますが、これからは広告制作ディレクターやシステム管理者などの経験を活かせるような新しいお仕事にも挑戦をしていきたいと考えています。

会社に勤めていた頃はフリーライターになるなんて思ってもいませんでしたが、実際に個人事業主として開業してからも、自分を支えてくれているのは15年間地道に培ってきたビジネスパーソンとしての経験なんだなと実感しています。

「石王英臣」という名前そのものが看板になる人生を選びましたが、とてもやりがいを感じています。40歳を過ぎた今でも新しい事を勉強したり、挑戦したりできる可能性があるんだと気づかされてワクワクしています。

そんな石王英臣の今の目標は「娘が自慢できるようなパパになること」です。

娘が大きくなった時に自慢してもらえるよう、この「石王英臣」という看板に胸を張れるような仕事をしていきたいと思います。

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