震災で流された陶芸品と工房。生涯陶芸家を誓い、農業に精を出すフリーランス。
農業で生計を立てながら、「いつかは陶芸に」と生きるフリーランス
宮城県で陶芸を生業としていた……震災が起きるあの日までは。
現在は温暖な南の島に移り住み、農業に従事する渋谷 丹さん(まるか農園)。第一子の誕生をきっかけに、移住を決意しました。生きるために選んだのは、鹿児島県奄美大島で農業に携わる道。陶芸とは違う土いじり、農作物の栽培で汗を流す日々を過ごしています。
震災から4年が経過し、初出荷を終えた今も、生涯陶芸家だと語る渋谷さん。陶芸家から農家へのキャリアチェンジ。そしてまたいつか、そう遠くない日に、陶芸家へ戻ることを決意するフリーランスのインタビューをお届けします。
生まれてきた子供のために、移住を決意
-かぼちゃ……ですね。
はい、かぼちゃです(笑)。皆さんは『えびす』をつくるんですけど、うちは『くりほまれ』という品種に挑戦しました。値段は一緒なんですけど、おいしい方が自分で食べる時に良いなって(笑)。えびすでも充分おいしいんですけど、くりほまれはもっとおいしいと聞いたもので。
-今年が初めての収穫だそうですね。
そうなんです。今年が初めて。事業を始めるときに、資金を借りているわけなんですけど、計画の中にかぼちゃを入れているもので、やらなければいけない(笑)。
-かぼちゃ縛りがある。
かぼちゃ縛りがあるんですが、やっぱり自分は東北出身なので、熱帯フルーツに憧れがあります。亜熱帯のフルーツ、マンゴーやパッションフルーツ、アボカドをもっとやっていきたいですね。パッションフルーツは、今年も穫れたんですが、結構評判が良くて。
-もともとは東北に住んでいらっしゃったんですもんね。
宮城県で陶芸を生業にしていたんですよ。陶芸といっても、食べていられたわけではないですけども。宮城県の村田に、大陶器市という陶器市があるんですね。選考を通過した作品だけ出せるようなところに、ようやく出せるようになって。宮城県のメジャーになりつつあった、というところで被災しました。
工房兼住宅は全壊です。1階は壁が流出して柱だけが残りました。建具や工房一式、ピロティの窯場も流出して、近くの家の屋根や家財道具がぎっしり入っている状態です。風呂ではスズキ、土間ではカレイが干物になっていました。集落は壊滅地区ということで、人が戻らなかったんですよ。
今でも私が住んでいた地区は、80戸あった内の2戸しか帰れていない。自分の家も建て直してありますけども、周りは草原みたいなかたちで。
コミュニティが何もないところで、子ども育てるというのもどうかなと。被災のひと月後に子供が生まれたのが、移住するきっかけとなりました。
農業支援を受けながら、初出荷を迎えて
-こちらへの移住はすぐに決めたんですか? 他に候補地があったとか。
候補地はいくつかありました。原発の近くに引っ越して、また災害があって逃げなきゃならないということになってほしくなかったので、原発の近くに引っ越すのはやめようねというのは決めていたんです。
原発から300キロ圏外って広めに取ったんですけど、そしたら、日本中引っ越しできるところがほとんどなくてですね。北海道の東のはずれか、南の島々か。
家族には冗談のように、沖縄の久米島はどうだろうって言ってたんです。東北楽天イーグルスがキャンプすることもあって、「東北の人たちいらっしゃい」みたいに手を挙げてくださったので。
ただ私たちが見つけられたのは、民間が支援してくれる、住宅の提供期間が半年という受け入れ活動の情報だけでした。生活の基盤を築かなきゃいけないと考えたときに、無理があるかなと。
陶芸の技能がありますけど、工房を建てるなんて、まだまだ先の話でしょうし、お金がなかったもので。そこで見つけたのが、奄美だったんです。
移住先の産業で身を立てようかと思っていたので、農業に目星をつけて越してきました。はじめは、農業と陶芸の両方と思っていたんですけど。
-同じ土いじりとはいえ、農業で生活することに不安はなかったですか?
自分で農作物をつくって食べる。自分の好きなことのひとつとして、受け入れられたんですよ。子供の頃から、自給自足にあこがれるところがあって。
助かったのは、農業研修というのを募集していたこと。募集期間の関係で、初年度は間に合わなかったんですね。でも週に一度くらいの体験農業みたいなのを受けられることになって、土方のバイトをしながら時期を待って。翌年から1年間の研修を受けることができました。
研修がなかったら、農家になるのって難しかったと思います。農家って何なのかというのは、入ったことがない人は分からないでしょうし。農家台帳に載るというのが、どういうことなのかとか。農地って、普通の人は買えないんですね。行政も持っていなくて、農家から買う必要があって、それには農業台帳に載らないといけない。
-知らないことだらけながら、サポートも受けつつ、見事に初出荷。
そうですね、初出荷。まあ、挨拶で配るのがほとんどでしたね。「こんなのやってます」「お世話になりました」的な。島でお世話になった人から注文をもらう以外には、宣伝もしていませんでしたし。
-次からは、住んでいた宮城の知り合いに届けたいとか。
もちろんですね。東北人だから熱帯フルーツ、亜熱帯フルーツへの憧れがあるでしょうし。自分は宮城に住んでいたころ、パッションフルーツの存在を知らなかったですから。マンゴーくらいですかね。あとはドラゴンフルーツという名前くらい。そういうのを自分でつくれるんだ、とわくわく感動したところです。
陶芸も農業も、自分の生活から生まれてくる作品
-苦労しながらも農業は順調な滑り出しのようですね。では陶芸のほうは?
移住して1年目は、アルバイトをしながらだったので、人の工房を借りてつくっていました。現在は農業が本格化しているので、ちょっと手をつけられていないんですよね。
ただ、頭のなかにはずっとあるもので、「いい土がでるよ」と聞いたら採ってきて、試しに焼いてみるということをするわけなんですけども。窯小屋をつくらないと本格的には焼けないので、まだちゃんとはできていません。窯だけは買ってあるんですけどね(笑)。
こちらに来て、陶芸家を何軒か尋ねてみたんです。話を聞いてみると、奄美は良い土が出ないということでした。実際に採ってみると悪い土じゃない。良い土も出ますね。
沖縄は真っ赤っかですけど奄美は白い土も出て、陶芸的に見ても面白い島だなと思っています。白い土で陶芸を展開したら、奄美の焼き物がどういうものかというのを出せるような気がして、面白くなりそうと感じているんです。
-陶芸を本格的に再開したら、農業との両立を図ることに?
仕事の入れ方によりますね。夏だけ採れるフルーツをつくれば、夏は忙しくなりますけど、他の季節は農閑期のような感じになるでしょうし。自分はフルーツが主体になるので、年中忙しくするつもりはないです。
個人的には、自分は陶芸家だと思っていますし、そうありたいと願っています。ではなぜ農業かというと、生活の糧としての選択ではあるのですが、もうひとつ側面があると思っていて。
気持ちとしては陶芸家なので。傍から見たら、全然、陶芸家には見えないでしょうけども(笑)。やっぱり軸足は陶芸において、他にも何かつくっていけたらと思っています。亜熱帯フルーツだけはつくりつづけるとか。
みんな、今いる場所、私なら奄美という土地であって、奄美に生かされている。自分がやる農業も陶芸も、奄美なしでは形にならないものだと思っています。その土地での生活が、つくるものにそのまんま出るんだろうなって。
現状は農業でいっぱいいっぱいになってますが、いずれは陶芸を。自分が生かされている場所や生活から生まれる、そんな陶芸をやりたいですね。
-自分で育てたフルーツが、自分でつくった焼き物に盛られるって考えるとワクワクしますね。
(おわり)