「二度と戻らない」と誓った山形にUターンしてたどり着いた働き方

「二度と戻らない」と誓った山形にUターンしてたどり着いた働き方
大好きだった、書く・編集の仕事。いつの日にか「二度と戻らない」と誓って、「二度と戻らない」と誓った地元・山形へ。でも、人生って分からないものですね。気がつけば2度、3度と書く・編集の仕事に戻り、今では山形でフリーランスのライターとして働くことに。
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都落ち感たっぷりの山形へのUターン

就職氷河期のはしりだった当時、非常に苦労した末に私がなんとか内定をいただいたのは、都内の会計・経営専門の出版社でした。入社1ヶ月前からの研修を経て配属されたのは、会計関連の資格に関する編集部。月刊誌と書籍の両方を担当し、忙しくも充実した毎日を送っていました。

異変を感じだしたのは、入社して3年目のこと。空腹感はあるのに、いざ食べるとミニサイズのクロワッサンひとつでお腹はいっぱい、電車に乗ると動悸がして1駅ごとに降りなければならなくなり、みるみるうちにげっそり痩せて、ついには過呼吸を起こすようになってしまいました。何度目かに会社で倒れたことをきっかけに、上司が無理やり連れて行ってくれた病院で「鬱病とパニック障害、それもかなり重度。即入院が望ましい」と診断。

それから1年近く休職と復職を繰り返したものの、結局鬱病を克服しての復職は叶わず、泣く泣く退職願を出し、屈辱的な気持ちで、「もうここには絶対に戻ってこない」と固く誓ったはずの地元山形に帰ることになったのです。

山形にはやりたい仕事がない、したかったはずの仕事をしたくない

思いがけず山形に帰ってくることになりましたが、やはり地元という安心感と、何もしなくてもいい自宅療養の身は気楽なもので、半年もするとだいぶ回復し、「ちょっと働いてみようかな」と思うようになりました。

とはいえ、就職情報誌や求人情報を見ても、それまでのような編集の仕事はほぼ見当たりません。あったとしても、求人情報に最初から「残業:多」と書かれているものばかり。まだ体力・気力とも耐えられる自信がなかった私は、編集の仕事に戻るのを諦め、期間限定の事務所で働くことになりました。

地元の会社のトップが集まるこの団体では、社長さんたちの仕事のしかたを間近に見ることができ、上に立つ人の気配りを教わりました。年端も行かず、生意気なこともたくさん言いましたが、社長さんたちはかえってそれを面白がってくれ、とてもかわいがってもらいました。

期間限定の事務所が終わる直前、地元では大手の印刷会社の社長から「前にそういう仕事をやっていたんだったら、うちの子会社に来ないか」と誘ってもらい、山形に戻って2年半後、やっと編集の仕事ができることになったのです。

編集やライティングの仕事ができる

意気込んで入社したその会社での業務量は、私の想像をはるかに超えていました。それまでは専門書という偏ったジャンルの本しか作ったことがなかったので、大学案内の次は自伝を作り、同時進行で葬儀場の案内とイベントの報告書を作るという振れ幅の広さに翻弄されました。

連日深夜まで続く残業や、こなすだけが目的になった自分の仕事のしかたに嫌気が差すのと、毎週末体調を崩すようになったのとどっちが先だったのかは、もうあまり覚えていません。

心身ともに疲れ果てて「もっといいものを作りたい」という思いがだんだんしぼんでいき、結婚を機に、私は逃げるようにしてその会社を辞めました。入社したのがあんなに嬉しかったはずなのに、たった1年半後には、「もうこういう仕事には戻らない」と決めていたのです。

「2度あることは3度ある」か、「3度目の正直」か

ある日、転機が訪れます。当時働いていた会社の社長は、それまでも何冊か本を出している人でした。「今度こういう本を出すんだ」と見せられた校正刷りに、いくつか間違いがあるのを見つけました。「間違いがあるので、そこだけ直してもいいですか?」と聞いたところ、「それなら全部見てくれる?」と言われました。校正はあっという間に終わりましたが、出版社からの赤字通りに直してしまうと、どうもその社長らしさが消えてしまうということに気づき、「こんなふうに表現を変えたらどうですか?」と提案していったのです。

「それ、すごくいいね! そういうこと好きなら、書籍についてはこれから全部やってほしい」と言われ、過去に身につけた編集や校正のスキルが、ここで役立つことになりました。しばらく経ったあとに言われたのは「広報誌を作りたいんだけど、原稿書く?」という言葉。一も二もなくYesと返事をして、私はみたび、ライティングの仕事に戻ることになったのです。

フリーランスという生き方そのものを楽しむ軽やかな決意

事務や経理の仕事を他の人にお願いし、ライティングや編集、校正の仕事に専念するようになってしばらくしてから、社長に「独立したら?」と言われるようになりました。そもそもフリーランスという選択肢を考えたことがなく、独立できるほどの技量が自分にあるとも思えず、そのときは言下に断りました。

それでも社長は「もうひとりで仕事できるよ」と言い続け、1年半ほど押し問答を続けた末に、私が根負けする形で独立しました。そのときはその会社と契約することを前提にしていたため、本当の意味でのフリーランスとはまったく違ったものだったのです。

仕事中

独立して丸2年を迎えた2015年2月より、完全なフリーランスとして活動しています。結婚するまで勤めていた会社の同僚が立ち上げたフリーマガジンにライターとして参加したり、ネットでライターを募集している会社に応募したりして、すこしずつ書かせていただける媒体を増やしている途中です。

振り返ってみると、得意だった事務作業も苦手だった経理作業も、フリーランスとして働くためには絶対に必要な経験でした。今までのスキルや知識を集約すると、フリーランスとして働くことに行き着くのが当然のような流れだったのかもしれません。

フリーランスという働き方は、たしかに不安定です。リスクもあります。でもそれ以上に、自分の人生を自分で決められることにいちばんの魅力を感じています。ただ、私自身もまだまだ駆け出しの身。地方で、フリーランスとして働くことに一生懸命取り組んでいる最中です。

活動の軸をしっかりと持ち、常に+αを目指すことで、自分自身のライティングスキルも上げていけると信じています。これからも、山形にいるからこそ書けることを書き、山形だけにとらわれない仕事をし、フリーランスという自由な生き方・働き方を存分に楽しんでいくつもりです。

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