道後温泉につかりながら(?)愛媛に貢献するフリーライターという道。

会社や時代への反骨精神で選んだフリーランス
僕は愛媛県にある4年制の大学に通っていました。そのため、3回生になってからスーツを着て、いわゆる普通の就活をしていたんです。始めは「書くこと」に関する業界で働こうと思っていましたけど、力不足で希望が叶うことはありませんでした。
別の職種での就職も考えましたが、僕が就活していたのはリーマンショックの影響で世界的不況に陥っていた時期。希望する会社から内定を得ることなく就活をする中で、会社の倒産や不況を伝えるニュースを目にする日々が続きました。その中で「自分のことは自分で何とかするしかない」と思い始めたんです。
「会社が生活を保障してくれる時代ではない」と言い聞かせて、夢だったシナリオライティングで食べる道を模索し始めました。今考えても、会社や時代に対する当て付けでしかなかったし、小さな反骨精神だと思います。
東京を訪れて、地方で感じることのできた「可能性」
塾講師をしながら脚本を書き始めました。愛媛では精力的に活動する劇団や市民演劇があったので、そこで脚本を書くチャンスをもらえたんです。市民演劇では1000人以上の人に作品を見てもらい、非常に充実した時間を送ることができました。
ですけど、県内の脚本だけでは生活するだけの報酬は得られなかったです。愛媛で5つほど脚本を書いて上演した後、都心で本格的にシナリオライターとして働くことを考えました。そこで僕は、仕事を得るため東京にある映像会社へ直接営業を掛けました。その会社では映画の脚本を書くことができたので、自分の夢に近づけると思ったんです。
しかし、東京でも脚本だけで食べていくのは難しいと言われたのは今でもショッキングな言葉です。その事実にうな垂れそうになったとき、営業先で出会った社員さんが言ってくれました。
「今は東京じゃなくても映画は撮れるし、仕事はどんどん分散されますよ。だから、これからは地方のほうが光ってきます」
僕はこの言葉を聞いて、自分が愛媛でやってきたことを思い返しました。地元で書いたものを地元にて上映する。「地産地消」ならぬ「地書地映」をやってきた実績があること。自分の経歴を活かしながら、地元にある可能性を探す必要があると思い始めました。
書くことを通して「地元・愛媛」でできることを考えた
愛媛に帰った後、自分の経歴と地元のことを洗い直しました。そんな中、県内でカルチャースクールの運営をしている人と会う機会がありました。都心では多いかもしれませんが、愛媛だとその数はまだまだ少ないです。ならば、仕事に就けるかどうかわからない都心へ無暗に出るのではなく、地元に浸透していないこと・知られていないことの認知度を上げるほうが意味のあることだと思いました。
地元に眠る「知らない」を解消すると共に、塾講師の経歴を活かして「書くこと」を伝えたい。僕は塾講師を辞めて本格的にライターとして活動することを決めたんです。さらに、ライター活動の出発点として文章のカルチャースクールを開講しました。
スクールでは相手に伝わる文章を書けるようにするのが目的ですが「ライターにはどんな仕事ができるのか」という認知度を上げる宣伝も含めて開講しています。「文章」を通して誰かとつながっていくと共に、「文章」でできることを愛媛県で行う。東京遠征とカルチャースクールの出会いは、ライターへ転じる大きなきっかけだったと思います。
生計を立てる「軸」を作り、時代に左右されない生き方をしたい
ライターとしてはまだまだ端くれで、今はweb記事の作成とアプリゲームなどのシナリオライティングを中心に手がけています。色々な仕事を同時進行していますが、その時々で何を「軸」に生計を立てるのか常に考えています。
ライターという仕事は自営と同じなので会社などの後ろ盾がないです。そのため、自分の仕事がそのまま自分の評価につながる。そのことはしっかり意識してないと怖いですね。こう書いてしまうと、ライターとは非常に厳しい仕事のように思えます。ですけど、僕としてはその厳しさが「何をして食べていきたいのか」を考えるきっかけになっています。会社だろうとフリーランスだろうと、「仕事」に対して自分の裁量できる部分が大きくなっていけば、時代に左右されない働き方が実現すると僕は信じています。